takeshiの街道を歩く カメラのイラスト

 中山道六十九次(日本橋~草津宿)  
 34.贄川宿~奈良井宿(2) 平成29年10月6日 
 漆器の町平沢の家並みを抜け、中央本線のガード下を潜ると、旧道は奈良井川の右岸の土手の道となる。対岸に、中山道の付け替えによって今も残る江戸から64目の橋戸一里塚を見て、木曽楢川小学校を過ぎたところで、奈良井川橋歩道橋奈良井川を渡る。奈良井踏切で中央本線を渡ると、旧道は左に中央本線が並行する道となり、奈良井宿の入口に位置する奈良井駅が左前方に見えてくる。宿場の手前に、モダンな感じの石造りの丸山漆器店の建物(写真265)が建っている。何気なく建物に近づいてみると、壁面に金属製プレートが貼り付けられていて、国の有形文化財に登録された大谷石を用いた石積みの建物で昭和36年(1961年)に建築されている。日本では地震に対して弱いとされる石造建物はほとんど見られないが、よほど耐震性には工夫を施しているのであろう。

 奈良井駅の手前から下り坂の道となり、奈良井宿が山々に取り囲われた木曽路の宿場であることが一目で理解できる。今朝出発した奈良井駅前には、「木曽路 奈良井宿」と書かれたモニュメント(写真266)が建ち、下の方に奈良井宿の町並み国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されていることが記されている。奈良井宿枝郷である平沢も重要伝統的建造物群保存地区に選定されているように、漆器産業がこれらの地域を豊かにし、現在まで町並みを維持する力になったのではないかと想像される。

 先行して奈良井宿に到着しているSさんと連絡を取り、落ち合い、伊勢屋に預けたリュックサックを受け取った後、下町の越後屋で蕎麦の昼食を摂る。ここからはSさんと同行して奈良井宿を散策し、鳥居峠越えをして藪原宿に向かうことになるが、予報通りに雨が降り出してくる。

 奈良井宿は江戸から34番目の宿場で、家数、人口ともに中山道の宿場の平均を上回る宿場であるが、旅籠数は5軒しかなく、中山道の中で2番目の少なさである。西に鳥居峠越えを控えて宿をとる旅人が多く、「奈良井千軒」と呼ばれるほど賑わいがあったと言われたことから、家数が中山道で12番目に多いことは頷けるが、旅籠が5軒しかないというのは信じられないことである。昨晩宿泊した伊勢屋をはじめ5軒の旅籠の規模が大きかったのか、旅籠以外に宿泊できる簡易な宿があったのか理由を知りたいものである。

  家数   409軒 (うち、本陣1、脇本陣1、旅籠5)
  人口  2155人 (うち 男1104人、女人1051人)
 
 奈良井宿
は戦国時代に武田氏が定めた宿駅のひとつで、江戸時代に中山道が整備される前から宿場として成立していたが、約1キロメートルにわたる宿長は中山道で最長のものである。江戸時代には江戸口から下町中町上町の3町に分けられ、本陣脇本陣問屋などの主要な施設は中町に置かれた。中央本線は宿場内の道に並行して流れる奈良井川との間を走っているが、国道が奈良井川の反対側に敷設されたため、奈良井宿は江戸時代の宿場の姿をほとんどそのままに今に伝えることができた。しかも宿場の宿命ともいえる火災被害にあわなかったことが、宿場の住民の平素からの努力があったのであろうが、幸いしている。

 宿場内の道幅も往時のままに保存され、道幅の狭い下町(写真267)では両側から家々の軒がせり出し、江戸時代の宿場もこのようであったと感じられる。このような宿場の姿は東海道の関宿でも見られたが、建物が格子戸格子窓を持ち、中二階建てで軒の低い二階の前面を張り出して縁としていることで、写真267に見られるように両側から圧迫されるような町並みを創り出している。中町は宿場の中心であることから、下町に比べて道幅が広く、家の造りは下町と同じようであるが、家並み(写真268)は下町に比べてゆったりした印象を与えている。因みに、屋根は和田宿の本陣建物と同じように石置き屋根であったという。
  

写真265 丸山漆器店

写真266 奈良井宿 江戸口
 
写真267 奈良井宿 下町家並み

写真268 奈良井宿 中町家並み 

贄川宿から奈良井宿までの徒歩ルート(7.7km)https://www.navitime.co.jp/coursebuilder/course/GagDB7AoCycONwsflwHLRFWOQ5deBCeP

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